横溝米吉とキク
稲穂のような人間になれ
私は、祖父母の横溝米吉・キクとは幼いころから共に過ごしてまいりました。米吉は、明治19年1月17日、現在の田主丸町にて農業を営む父乙吉・母マツの四人兄弟の末っ子として生まれました。幼少期は家庭が貧しく、尋常小学校を卒業して10歳くらいのころから、久留米の酒蔵や醬油屋に丁稚奉公に行き、家計を支えました。祖父は、「酒造りの仕込みは寒い時期の早朝から行うのでつらかったが、親を楽にさせたい一心で頑張った」と話しておりました。
その後、大正2年、27歳のときに貝島大之浦炭鉱の抗内夫になり、お金が貯まったら、わらじを履いてふるさとに帰り、両親にお金を渡していたそうです。
一方、祖母のキクは、明治12年12月2日、父入江平五郎、母トメの長女として、旧穂波町高田で生まれました。キクはおとなしい性格で、よく働き、私たち家族に「稲穂のような人間になりなさい」と言っていました。
夫婦二人で力を合わせ働き、お金を貯めた夫婦二人で力を合わせ働き、お金を貯めた
大正2年の秋、旧穂波町の三菱飯塚炭鉱に移ってきた米吉は、キクと所帯をもち、夫婦二人で抗内に入り、米吉が先ヤマ、キクが後ヤマになって石炭を掘り続けました。当時の様子を米吉が「夏の時期、坑内は地熱で暑うしておられんぞ」と言っていたのをよく覚えております。
大正8年、米吉は炭鉱夫を辞め、三菱の炭住街に日用品店を開いて商売を始め、夫婦で休みなく働きました。二人は商売の素人だったので手探りで始めましたが、お客さんなどから助言をいただいて、徐々に軌道に乗っていったようです。
戦後の預金封鎖で預けていたお金のほとんどをなくしましたが、二人で力を合わせてお金を貯め、三菱の下請け業を始めました。
昭和37年4月10日キクが74歳で亡くなり、昭和40年1月、米吉が78歳の時に横溝奨学会が文部省から認可されました。米吉は毎年夏、カレー会を主催し奨学生の皆さんとお話しをすることを楽しみにしておりましたが、昭和46年2月14日、86歳で永眠いたしました。
横溝奨学金を通じ
筑豊のため、日本のために活躍してほしい
米吉とキクは学問も地位もありませんでした。身体一つで働き続け、質素な生活を生涯通して守りました。米吉は人生の最後に、可愛がってくださった筑豊の地への恩返しの一つとして、旧穂波町に寄付をしました。寄付をした東京電力と九州電力の株は、預金封鎖後、二人が手持ち金から再出発をして買ったものです。二人は、勉強をすることができず苦労をした分、学問への想いを強く持っておりました。その想いをこの横溝奨学会を通じて、筑豊の子ども達に託したのだと思います。
また、米吉は設立当時、秀村町長に一つお願いをしています。それは親孝行をする子どもさんに奨学金を貸してほしい、ということです。両親を助けるため幼少期から家を出て働き続けた米吉の想いが、そこにあるのだと思います。
学習意欲が高く、親孝行をする筑豊の子どもたちが横溝奨学金を使い、筑豊のため、ひいては日本のために広く社会で活躍されることを期待しております。
ツルハシが生んだ奨学金
その熱意を次の世代へ